水源に恵まれなかった郡山において、飲料水の確保は大きな問題でありました。1887年(明治20年)に郡山町の有志により設立された水道会社により、多田野村(現大瀬町)の清水池の湧水を水源とした多田野水道が1889年(明治22年)に着工され翌1890年(明治23年)5月に完成しました。松材のくりぬき管を約10キロメートルに渡り繋いで使用され、その後1912年(明治45年)5月に郡山町長であった今泉久次郎(いまいずみきゅうじろう)の尽力によって近代水道が利用されるまでの22年間に渡り、郡山の水道として大きな役割を果たしました。自然の木材を腐食から守り、維持して利用してきた先人の努力は並ならぬ苦労であったと思われます。
※1890年(明治23年)に発布された水道条例によって、水道は民間会社が経営できないことになり1892年(明治25年)、町に管理が引き継がれています。
↑元郡山町長の「今泉久次郎」氏像。
↑元郡山町長の「今泉久次郎」氏像。
↑安積疏水通水百周年を記念して郡山青年会議所建立による、郡山水道創設者「今泉久次郎」の銘文。
↑水道発祥の地(多田野水道)の説明書。南側から望む。
↑水道発祥の地(多田野水道)の説明書。北側から望む。北風の影響か、痛みが激しい。
↑西側から見た「清水池」全景。
↑南側から見た「清水池」全景。
↑東側から見た「清水池」全景。
↑北側から見た「清水池」全景。
↑水道として使われた木管の一部。
↑水道として使われた木管の一部。
↑水道として使われた木管の一部。
↑郡山市水道局の注意書き看板。
↑清水池の水は小川となって流れていきます。
↑作の向こう側に清水池が見えます。池の水は中央の穴から流れてきます。
↑右から流れた水は小川となり、道に沿って流れていきます。
↑小川となって流れていきます。
↑横断する道の下へ流れていきます。
↑そのまま道沿いの側溝を流れていきます。
↑「郡山近代水道の父 今泉久次郎(いまいずみきゅうじろう)の胸像」と「郡山近代水道発祥の地 清水池(しみずいけ)の案内看板。
↑福島県道6号郡山湖南線東側より案内看板を望む。
↑西側から見た「郡山近代水道の父 今泉久次郎(いまいずみきゅうじろう)の胸像」と「郡山近代水道発祥の地 清水池(しみずいけ)の案内看板。
↑福島県道6号郡山湖南線東側より案内看板に沿って左折し、清水池公園方面を望む。
↑清水池公園近くより、分水嶺の御霊棺峠が一望できます。山の向こうに猪苗代湖が広がる。
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