平成に見る安積開拓・渡邊閑哉(二本松市)

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渡邊閑哉(わたなべかんさい)は、1798年(寛政10年)下長折村(現二本松市)の名主渡辺章の第四子として誕生。
名は朴 通称儀右衛門、隠居して閑哉(かんさい)と称しました。
16才の時二本松藩の渡辺竹窓の門に入り儒学を学びました。
19才にして布沢村(現二本松市太田)の名主となった後、45才に下長折村の名主となり更に鈴石村の名主を兼務し、村の財政を立て直す功績を残しました。
閑哉の子孫の渡辺儀さんの敷地には、閑哉のこれらの業績が記された石碑「霊松記」が建っています。
閑哉は藩政に関わっていた当時から、猪苗代湖から水を引き安積三原(大槻原・広谷原・対面原)の開拓を唱えていました。
明治維新後の1870年(明治3年)の春には、今泉一三郎と2回目の踏査を行い、建白書として県令に提出しています。
翌年、県令は国の井上馨大蔵大輔に謀っています。
※建白書は、福島県歴史資料館に保存されているそうです。
また、1871年(明治4年)11月に県令安場保和は閑哉を呼び意見を聞き、閑哉は「開拓吟」を県令に進呈して帰りました。
更に、亡くなる前年の1872年(明治5年)秋には、3回目の実地踏査を行っています。
閑哉の案は、田子沼に沿って猪苗代湖の水を引き、嶺の中段に水路を穿ち五百川の上流に導き、高玉地内の横川堰(玉川堰)を修築して熱海の南端に高水路を築き安積全郡の原野に潅漑するもので、実際に実施された工事と同じ内容でした。
(撮影:3/29/2017、8/1/2017)

↑「閑哉翁頌徳碑」が建つ、下長折 諏訪神社入口。鳥居左側に頌徳碑が見えます。県道40号線(飯野三春石川線)沿いに入口があります。〒964-0316 福島県二本松市下長折移川

↑諏訪神社 社号。

↑大正8年9月建立。

↑諏訪神社鳥居。

↑「閑哉翁頌徳碑」は、1900年(明治33年)に渡邊閑哉翁の偉業を讃え建立されました。高さ2メートル程の稲井(いない)石を使用しています。
閑哉が下長折村と鈴石村の名主を兼務して村の財政を立て直した業績が記されています。

↑頌徳碑は2011年(平成23年)の東日本大震災によって縦にひび割れましたが、2016年(平成28年)、地元の「岩代小浜の歴史と文化を護る会」の活躍により修復されています。

↑閑哉翁頌徳碑 平成28年(2016年)11月修復
「岩代小浜の歴史と文化を護る会」 施工:有限会社ミナト石材 と記されています。

↑拝殿まで、急な階段が続きます。

↑諏訪神社拝殿。

↑諏訪神社の扁額。

↑諏訪神社の案内板。北側からの通り沿いに案内板はあります。

↑渡邊閑哉井戸全景。

↑渡邊閑哉井戸表示板

↑「渡邊閑哉の井戸」解説案内板。江戸末期、下長折村名主の子どもとして生まれる。仙台藩の大屋士由に学問を学び、後に洪水で苦しむ人々のために台明竹を植え(閑哉竹と呼ばれた)るなどの仕事をした。この井戸は閑哉の使ったものと言われている。 岩代町教育委員会

↑井戸の中をのぞく

↑閑哉竹(台明竹)表示板

↑閑哉竹案内板。洪水が度々おきる暴れ川の護岸改修のため、渡邊閑哉が鹿児島県から取り寄せて川筋に植えさせたのが台明竹(だいみょうたけ)です。

↑水害に強い土手にするため、渡邊閑哉はいろいろ調べて、台明竹(だいみょうたけ)に決めたそうです。その功績を讃えて地元では「閑哉竹」と呼ぶそうです。

↑移川沿いに群生する閑哉竹

↑渡邊閑哉の7代目子孫にあたる渡辺儀さん敷地内のに建つ霊松記。二本松大久保。

↑渡邊閑哉が鈴石村の名主のとき、負債2,300両を返済するため、勤務・開墾を推し進めました。そのときの戒めの言葉を書き残して欲しいと農民たちに懇願されて刻んだのが「霊松記」と言われているそうです。

↑石碑ウラには元治元年(1864年)8月とあり、渡邊閑哉が鈴石村名主退任記念に刻まれたとされているそうです。

↑元治元年(1864年)8月と読めます。

↑今でも、高台から住民を見守っているような光景に見えます。

↑ライオンズ国際協会は100周年を記念して100周年記念奉仕(コミュニティー・レガシー・プロジェクト=地域遺産事業)として旧二本松藩の名主渡邊閑哉を安積疏水開発計画の功労者として、多くの功績を顕彰してモニュメントを建立しました。平成29年(2017年)6月1日

↑「渡邊閑哉翁顕彰碑」安積疏水開発計画の功労者として功績が刻まれています。

↑「渡邊閑哉翁顕彰碑」のウラには、名主として村を再建・河川の護岸「閑哉竹」・飢餓への備え「閑哉芋」・岳温泉(深堀)の引湯設計・学問の奨励・安積疏水開発計画の功労者として渡邊閑哉翁の功績が刻まれています。

↑隣りには、第53年次大会記念アクティビティで2007年4月22日に寄贈された高野槇(こうやまき)の碑があります。

↑右に植えられた高野槇(こうやまき)が見えます。

↑ウラには、第53回地区年次大会記念アクティビティーで高野槇(こうやまき)を寄贈した当時のメンバーが記されています。

↑隣りに建つのは、二本松岩代公民館です。

↑渡邊閑哉の墓表示板。

↑舗装の通りから少し入ります。

↑一番右手前に建ちます。

↑渡邊閑哉翁の墓
清風院松窓閑哉居士(通称儀右衛門)
明治6年8月19日没 酉年75歳
新月院梅窓妙華大姉(閑哉の妻おも子)
文久3年2月19日没 亥年63歳

鳩サブレの缶を利用しています。

↑静寂な緑に包まれた墓地に眠ります。