猪苗代湖水を農業水利として利用する計画案は小林久敬によって進言され、その後、中條政恒(ちゅうじょうまさつね)の働きによって、大久保利通内務卿を通じ国の直轄事業として1879年(明治12年)に工事が開始されました。
3年後の1882年(明治15年)8月10日には岩瀬郡仁井田村まで試験通水を実施されています。
また、1878年(明治11年)から明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもの、旧士族のうち全国の9藩から約2000人が郡山に移り住み安積開拓が始まりました。今でも郡山の各地に残る入植者の碑は当時の偲ばせてくれます。(撮影:12/11/2007)
↑安積疏水と交差する笹原川には、笹原川頭首工がある。
↑笹原川頭首工もラバーダムになっています。
↑ラバーダム表示。(ゴムはブリヂストン製)
↑水利使用標識。
↑笹原川頭首工の建物。
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↑欄干にある笹原川の表示。
↑笹原川にかかる腰巻橋。昭和61年3月竣工。
↑腰巻橋から笹原川の下流を望む。
↑笹原川からの取水口。
↑笹原川を横断して流れてくる安積疏水。三穂田町鍋山へと続いていきます。
↑笹原川の下を通り安積疏水が流れます。
↑笹原川からの分水と合流して流れていく安積疏水。
↑下流へどんどん流れていきます。
↑途中、年代物の分水工がある。
↑全体が錆びており、古い分水工のようだ。
↑安積疏水の下流を望む。
↑十流を望むと高旗山が見える。その山の向こうには猪苗代湖が広がる。
↑安積疏水の上を用水2本が交差している。
↑下流へどんどん流れていきます。
↑小さな堰を下ります。
↑フェンスがきれいに直されて、安積疏水に沿って桜並木が続きます。
↑なるほど、平成7年3月に桜植樹記念の碑が建っている。ちなみに郡山市長名は藤森英二氏です。
↑この先も桜並木が延々続きます。
↑途中、小さな分水工があるが錆び錆びです。
↑桜並木も終わり、一面視界が広がる。
↑更に下ると、東都郡山ゴルフカントリークラブの敷地に沿って流れていきます。
↑東都郡山ゴルフカントリークラブ裏口の下を流れていきます。
↑更に先で、山沿いを進みます。
↑県道の下を抜けて茂みの中を流れていきます。この県道のすぐ南側には新安積疏水の仁井田幹線があります。
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↑養鯉場への分水工がある。ちなみに、安積疏水の完成後、発展した製糸工場から出る蚕の蛹(さなぎ)が鯉の餌になったため、郡山は養鯉が盛んになったそうです。
↑前方に養鯉場の池が見える。なんとカワセミを見ました。
↑養鯉場を抜けると開渠の幅も狭くなり、細~く流れていきます。
↑「上の池」の横を通って細〜く流れていきます。
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↑上流を望む。左に見えるのが「上の池」
↑上の池を東側から望む。白鳥が上空を通り過ぎていく。
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《参考文献》
◇「安積疏水百年史」 発行:安積疏水土地改良区
◇「郡山市水道史」 発行:郡山市水道局
◇「誰にでもわかる安積開拓の話」 発行:歴史春秋社
◇「みずのみち 安積疏水と郡山の発展」 発行:歴史春秋社
◇「郡山市水道90年のあゆみ」 発行:郡山市水道局
◇「安積開拓120年記念 先人の夢に逢う」 発行:郡山市 ほか
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