安積開拓(大槻原開拓)は、県令(知事相当職)の安場保和(やすばやすかず)の指示のもと、典事(課長職)であった旧米沢藩士の中條政恒(なかじょうまさつね)によって開始されました。士族授産を目的にしたこの事業は、手始めに大槻原への旧二本松藩士族の移住から始まりました。
↑1932年(昭和7年)10月1日建立されました。中條の肖像は、帝国美術院会員の北村西望(きたむらせいぼう)による彫刻であり、その下には徳川家達(とくがわいえさと)公による題額が記されている。
↑碑文は2,000文字にも及ぶ漢文で、中條の伝記が安積開削の恩人である大久保利通の三男、大久保利武(おおくぼとしたけ)侯により記されています。
ちなみに、大久保利武氏は昭和16年4月20日に開催された安積疏水通水60周年の記念会に、中条政恒の遺族の中條国雄氏とともに大久保利通の遺族として招待されています。
↑中條邸後碑。開成郵便局の東側にあります。晩年は、家族とともに郡山の開成山に移り住み、明治33年4月開成山で没しました。
↑1966年(昭和41年)4月 自然石に黒御影石がはめ込んであり、郡山文化協会有志により建てられました。
↑現在はひっそりとした公園となっている。(知る人は少ないのではないかと思いますが、なかなかキレイに整備されています)