新安積疏水は、1941年(昭和16年)に従来の疏水路ではカバーしきれなかった地区に対する開田の必要性により計画されました。猪苗代湖に面した湖南町浜路に新たな取入口を予定していましたが、戦争激化による資材不足のため止むなく事業は一時中止されました。その後、1945年(昭和20年)に再開されましたが、当初の浜路ルートから旧安積疏水の上流部を利用する計画に変更されました。(猪苗代町田子沼にて分岐しています)
※浜路取入口からは飲用水専門の上水路が1979年(昭和54年)に完成し、郡山市民の飲み水として利用されています。
1970年(昭和45年)からの国営安積疏水農業水利事業に伴い、ほ場整備事業として深田調整池(深田ダム)や多田野第一頭首工が新設されました。新安積疏水は山間部を貫いて通っているため、なかなか馴染みが薄いかもしれませんね。(撮影:12/1/2007)
↑田子沼分水工から隧道で南下した新安積疏水は、逢瀬町大久保で小水力発電所を経由し、逢瀬川上流を横断します。
↑下には逢瀬川源流が流れている。案内物は何もない。(ただ単に農業用水路でしかないのか)
↑逢瀬川源流の下流を望む。ここから見えないがこんな奥地まで水田がある。
↑逢瀬川を横切った新安積疏水は、郡山市逢瀬町多田野休石(やすみいし)にて多田野川上流にある新安積分水工まで隧道で進んでいきます。
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↑茂みの中に立つ地中工作物の表示。この真下に新安積疏水が通っているのが分かります。
↑新安積疏水は、福島県道6号郡山湖南線の三森峠から猪苗代湖へ抜ける手前の逢瀬町多田野休石(やすみいし)地区の「新安積分水工」へ出てきます。(この道もよく通る道だが、今まで全然気が付きませんでした)
↑先程の山中から隧道を通って出現します。(新安積疏水にやっと会えました)
↑新安積分水工で分水され、左側は多田野川へ注ぎます。右側は新安積疏水の本線。多田野川を横断すると再び隧道となる。
※ここから少し下流の多田野川には多田野第一頭首工があり、深田調整地(深田ダム)へ続く導水路の取水口が有ります。
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↑多田野川の上を横切る新安積疏水の開渠。ここだけ真新しいです。
↑多田野川を越えた先の隧道は古いまま。まさに新旧合体。この先は、途中の山間部で顔を出しながら、須賀川市守屋(もりや)の笹原川付近まで延々と隧道が続きます。
↑横断する多田野川下流方面。分水した水が多田野川へ合流するのが見えます。
↑福島県道6号郡山湖南線の北側の山裾にある「水地中工作物」の標識。この下を新安積疏水が通っているのが分かります。
↑新安積分水工から、西へ1.5kmほど多田野川下流に多田野川第一頭首工があります。
↑多田野川第一頭首工から上流を望む。この先に新安積分水工がある。(この辺は人影も見えず寂しい)
↑頭首工から下流を望む。この先で安積疏水が通り、多田野川第二頭首工がある。
↑多田野川第一頭首工の表示。製作年月日は昭和52年12月とある。
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↑頭首工の上流にある多田野川を横断する古い水路。
↑多田野第一頭首工から導水した先に、深田調整池(深田ダム)がある。有効貯水量は804万立法メートルで、建設当時アースダムとして全国第1位であったようです。上流部分を望む。
↑国営事業深田調整池の定礎式は1973年(昭和48年)9月。深田ダムの完成により、猪苗代湖の水をいつでも溜めておけるようになりました。
↑深田調整池下流の堤から三穂田方面を望む。かなりの勾配がある。
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↑深田調整池から多田野川への取水路。隧道から勢いよく流れてきます。
↑分水された左側の取水路は、竹林を抜けて第五分水までコンコンと流れていきます。
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《参考文献》
◇「安積疏水百年史」 発行:安積疏水土地改良区
◇「郡山市水道史」 発行:郡山市水道局
◇「誰にでもわかる安積開拓の話」 発行:歴史春秋社
◇「みずのみち 安積疏水と郡山の発展」 発行:歴史春秋社
◇「郡山市水道90年のあゆみ」 発行:郡山市水道局
◇「安積開拓120年記念 先人の夢に逢う」 発行:郡山市 ほか